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彼には当時長く付き合った彼女がいた。
結婚の話もちらほらと出てはいたが、彼にとってはリアリティのある話ではなかった。
そんなおり、彼女が妊娠したのが判明する。
彼(もちろん彼女もだが)は初め困惑する。
が、素直に喜ぼうと決めて、結婚を決意した。
子供は順調に大きくなり、五カ月をを迎えたころ、些細なことから二人は大ゲンカをする。
内容は他愛もないことで、二人の関係に何ら影を落とすものではなかったが、その晩彼女は腹痛を訴える。
彼の車で病院に行くが結局彼女は流産してしまう。
彼女は彼を責めなかったし彼も直接の原因が自分だとは考えなかった。
しかし、病院の暗い廊下で彼女の診察を待ち、母と子供の無事を祈りながら、そして悲しい結果を聞かされたとき、彼の心の奥で囁く小さな悪魔がいたという。

「これでよかったんじゃないのか?」

彼は心のどこかで、ほんの少しほっとした、と言うのだ。

子供の死を彼も彼女も悲しんだ。
その涙には嘘はないし、悲しみももちろん本物だった。
だから、「ほんの少しほっとした」という彼の言葉は、子供の死という大きな悲しみを受け入れるための、自分への理由付けなのかもしれないし慰めなのかもしれない。
けれど彼は自分の中の闇を感じてしまった

人はだれでも心に闇を持っている。
それがどこから来るものなのか、それとも初めからあるものなのかは分からない。
兎に角、誰でも多かれ少なかれ持っているし、僕も持っている
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2006.06.18 
幼い頃に母を亡くした私は、 
遠足などでは、 
友人のお母さんの手作り弁当を凄く羨ましくながめ、 
その隣でいつもパンをかじっていた。

そんな私に、 小学校最後の修学旅行の朝、 
近所に住んでいた当時十九歳のお姉さんが突然弁当を作ってくれた。 涙を流して食べたその彩りと味は、 一生忘れない。
 
あれから二十四年立った今も、 
お姉さんを私は実の姉のように敬い慕う。
 
「あの弁当だけはわすられん」
 と私が歓喜の思いで言うと、
「何ね、 たかがあんな弁当ぐらいで」
 
とお姉さんは、笑って応える。

お姉さんにとってはどうってことない出来事でも、
私の心には大切な思い出となった

心が温かくなる話より~
2006.06.18 
毎週、下町の老人福祉センターに通い、踊りや珠算、 
詩などをおしえていただくのを生きがいにしている女性です

先日、 センターの帰り、小さな食堂で好みのものを食べ、 
代金を支払おうとしましたら、 
店の人が 「先ほど、 男の人が払って行かれました」 
とのこと。

別に知り合いもおりませんでしたので不思議に思い、 
詳しくおたずねしたところ、

「なんだか故郷のおふくろを思い出したから、 あの隅で食べているおばあさんの分も払っておくよ」

と言って出て行かれたそうです。 
どこのどなたか全然わかりませんが、 
おふくろさんの代わりにと親切にしていただき、 
涙が出るほどありがたかったです。 
ほんとうにありがとうございました

心が温かくなる話より~
2006.06.15 
僕が3年生の時、喘息で入院、そして退院する日のことです。
心臓が悪くて入院していた中学2年生の小島望美ちゃんが、
僕に一通の手紙をくれました、
その手紙のないようは
「また、ぜんそくなどになって入院をしないこと。
家に帰っても強くたくましい男の子で、
勉強、運動にガンバレヨ!!」
との言葉です。

ある日、僕は望美ちゃんの顔を見に病院へ行きました。 
でも望美チャンは、もうこの世にはいませんでした。 
その日から僕は、病気を早く治して 
「やさしくて、たくましい男の子」 になろうと心に決めました。

望美ちゃん、大きなやさしさ、大きな親切ありがとう

僕、頑張るよ!

胸にジーンとくる話より~
2006.06.14 
人は、さまざまな出会いの中から、きらめくような瞬間と生の充実を得る。
路傍にひっそりと咲く草花に生きることの意味を尋ね黒々と掘り起こされた土の匂いから生命のあたたかさを知る。

たとえ苦しみの中にあってさえ、思い出の欠片を集め、死の間際まで多くの出会いを重ねる。

ようやく長い冬も過ぎて、木の葉が芽吹き出した頃、姉から電話が入った。

「もしもし……驚かないでね。あと、2、3か月の命なんだって…」

重い声の徴しに、会話はそれでとぎれた。
周囲の時は止まり、眼前に見えるプラタナスの一葉だけが鮮やかに光りを受け、鋭い輪郭線を描いていた。
すぐに前医のところに電話を入れてみたが、もう、治療方法が見つからないということだった。

7月、その年のお盆は急激な暑さに見舞われ、母が突然脳硬塞でこの世を去った。
それから3年後の7月、今度は姉が乳癌の宣告を受けた。

「良子を頼むよ」と言い残して逝った母の言葉が、こんなに早く私に降りかかってくるとは思いもしなかった。

方向性を失った羅針盤のように、私たちは激しい嵐の中で必死に光を求めた。
どこへ向かおうとしているのか、いずれ宇宙の一分子となって無への帰還を果たすにしても、一瞬のようにみえる人生をどう振り返ればいいのか…
目に見えないものによって動かされているのならば、その存在を信じたい…

絶望的な闇をくぐり抜けて辿り着いた先は、聖ヨハネホスピスの大きな扉だった。
そっと足を踏み入れた瞬間、その扉は左右に厳かに分かれ、透明なあたたかい空気が流れ出した。
2人は顔を見合わせて、重い病気から解放されたように明るく微笑んだ。
あとわずか11日間の命とは知らずに。

そこの雰囲気は、死は怖くて恐ろしいものだというイメージは全くなく、死を生と同じように受け入れられる、明るく開かれたものだった。

生と死の共存の場、生きる者も死ぬ者も同じ地平に立って見つめ合う……。

あるとき、姉は
「先生みずから毛布をかけてくれたのよ」と、嬉しそうに言った。
また、別の日
「山崎先生は、ひざまずいて診てくれるの」と感激して、その光景を話して聞かせてくれた。

スタッフの方々も皆、親切で優しく、何よりその笑顔に助けられた。

「スタッフ全員で考案したのよ」という椅子式便座も見事な作品で患者に対する思いやりを感じた。
それぞれの存在が共鳴和音のようにホスピス全体を満たし、私たちはその中で、忘れかけていた本当の時間を取り戻した。


人生最後の場で、最も美しい瞬間に出会い、患者というよりも1人の人間として姉の生涯は幕を閉じた。
死は一つの集結であると同時に、遥かな旅立ちでもある。
多くの心に見送られて青空の向こうに旅立っていった姉は、幸せだった。

ホスピス通信「生の終わりに小さなもてなし」より~
2006.06.13 
3年前のことです。
私は老妻とともに連休を利用して、関西旅行に出かけました
三晩目の八時頃、ホテルのフロントに着くなり「電話です」と言われて出てみると、小学校に入学したばかりの孫娘が自宅近くの温泉プールで溺れ、意識不明の重体との急報でした。

最終の新幹線「のぞみ」に飛び乗り帰りましたが、願いも空しくついに奇跡は起こりませんでした。

その年の9月末、墓参りに行きますと、墓前に封筒が供えてありました。
開けますと、孫娘が3月まで通っていた保育園からの運動会への案内状です。
うれしくて、悲しくて、泣けて泣けてたまりませんでした。

また、翌年の3月末のことです。
自宅で花の手入れをしていたら、人の気配がするので頭を上げるとわずかひと月たらずではありましたが、孫娘を担任された小学校の先生です。
孫のためだけに印刷された、一枚の学年終了証書を渡しにお出でくださったのです

先生が帰られたあと、思い切って泣きました。

孫は、わずか6年間の極めて短い人生ではありましたが、保育園でも小学校でも優しい先生方に恵まれて幸せだったと、心から感謝申し上げています。
この思い出は、私にとって生涯忘れられないものとなるでしょう。

涙が出るほどいい話 「小さな親切」運動本部 編

大切な人が亡くなってしまった時につい人から言われるのが「そんなに悲しんでいると、天国へいってしまった人も悲しくなるよ」と言われます。
けれども、天国なんてどこにあるのか分からないし、ましてや私を置いていってしまったのだと、毎日毎日、そればかりを思っていました。

もう、この世のどこにもいないのだと
触れもできないのだと。

真っ赤な空の下、蜻蛉を捕りました。
あれは、夕日だったのだと、最近になって、分かりました。

今、彼はどこにいるのでしょうか
天国への階段を昇ってくれているのでしょうか

ただ、それを願うばかりです





私の墓石の前に立って涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって吹きぬけています。
私はダイアモンドのように雪の上で輝いています。
私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。
秋にはやさしい風になります。
朝の静けさのなかであなたが目ざめるとき、私はすばやい流れとなって駆けあがり鳥たちを空でくるくると舞わせています。
夜は星になり、私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んではいないのです。

「あとに残された人への1000の風」 南風 椎 訳

2006.06.12 
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