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あなたはベタベタするのが嫌いでしたね。

布団の中で,ギュッとして。と頼んでもイヤだと言って何もしてくれなかった。

ある日あなたはこう言った。

「たまには抱きしめて寝てやるよ」

私はちょっと驚きながらも嬉しさと幸せで胸一杯になって
その日はあなたの腕の中で眠りにつきました。

次の日あなたは
「出掛けてくるよ」
と言いました
「行ってらっしゃい」
そう言った私に優しく微笑みかけ,今までで一番優しいキスをくれました。

そして出ていきました

あなたは帰ってきませんでした

笑顔のない人形になって
これから消える存在として帰ってきました

人は死ぬ前,必ず無意識のうちに変わった行動をとると言います

急に優しくならないでよ

急にあたしの我が儘を叶えないでよ

そんなのいらない

いらないから

ずっと側にいてほしかった
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2006.08.30 


早く、一生が終わればいいのにって、いつもいつも思っていました。
あなたと出会う前、ずっとずっと独りで生きてきたって思っていたころの話しです。

頼る人もなく、孤独な毎日の中で私は、自分が生きている意味すら本当に分からなかった。

生きる事はただ苦しくて、絶望と世間の憎しみで満ちていた。

きっと生来の負けん気がなかったら、たぶん
私はとうの昔に死を選んでいたと思います。

でも、あの時、死ななくて良かった。

あなたにも出会えました。


人はいつか、必ず死を迎えます。
それは生命の決まり事です。

「生きる」という喜びは、長く生き長らえることではないと最近、私は思うようになりました。

なぜなら「あなた」に出会えず続く80年の人生より「あなた」に出会い、人を想うこと。
人を愛すること。
そして、愛される事を知った。
今の人生を私が望んでいるからです。


たとえ、明日、この命が潰えた(ついえた)としても「生きた」という喜びは、虚無に生きた80年とは較べ物にならないでしょう。


今の悲しみはきっと癒えるのです。

自分より大切なものがあれば、自分より愛するものがありさえすれば、越えられない悲しみは決してないのです。

忘れないでください。
同胞たちの死を。

そしてみなさんの心の中にある「愛する」という想いを
2006.08.28 


留置所で接見(面会)しに来た妹がこう言った。
俺の顔を見るなりいきなり泣き出す。
俺「なんだよ、どうかしたの?」
妹「ママが死んだ」
言葉も出なかった。
その後部屋に戻り、畳の上に座ったとたんに
涙が溢れ出した、正直泣くとは思ってなかったし
母親の事を嫌っていたはずだった。
自分が小学生の頃から母親はアル中だった、
家族関係も良いとは言えない家庭だった。
親父は借金に浮気、母親は毎日酒。
家族の事でいい思い出なんて無いと思っていた。
死因は嘔吐により、息が出来なくて苦しんで死んだと
妹から聞いた、その時家には誰も居なかった。
母さん苦しかったよな。
母さん寂しかったよな。
いつか倒れたときがあったよね、
救急車で病院に運ばれてアルコールはやめさせて下さい
って医者に言われたんだよ。
誰も止めなかったね・・・
誰かが傍にいてあげれば、母さん死ぬ事なかったよね
本当ごめんね・・・
母さんの話し相手はいつも家で飼っていた
犬のチャピだけだったね。
チャピの世話は酒飲んでても絶対忘れてなかったよね。
チャピ母さん死んですぐ死んじゃったんだよ。
ご飯食べなくてさ、母さんがいつも座ってた
所から離れなくてさ。
もうこれ以上書けないや。
母さん生きてるときは、いい思い出なんて
思い浮かばなかったのに、
今になっていい思い出しか思い出せないんだよ。
本当に馬鹿な息子でごめんね。
いい事なんて1つもしてやれなかった。
してやれなかったどころか、母さん死んだ後も
俺、母さんに助けてもらったんだよ。
犯罪犯して留置所で母さんの死を知らされ
葬式にも出れず、葬式前に一目だけ見たね。
手錠して親の死に顔みるなんて親不幸の極みだよな・・
その後の取調べとかも事件の真相とか隠してたんだけど
素直に喋ったんだ俺。
刑務所行って、罪を償って母さんに線香あげようと
思ってたんだけどさ、裁判で執行猶予がついて
刑務所には行かずに外出れたんだよ。
留置所に居た期間が2ヶ月弱、
母親の死で十分に罰を受けたって、
被害者の人が言ってくれてたみたいで。
こんな事ってあるのかと思ったよ・・・
あれから随分と時間は流れて今はまともに生きてます。
母さん元気ですか?
寂しい思いしてませんか?
俺が死んだら1番に会いに行くよ。
本当に馬鹿な息子でごめんね。
2006.08.28 


彼氏が中古だけど車を買ったので、ドライブで海に行こう!
という事になりました。
車の中で食べようと、浜辺でつぶ貝の醤油たれの串焼きを買って
隣で彼氏が運転して、私は串焼きを食べていました。
串焼きはおいしくて夢中で食べてたら、片手でもっていたスチロール
のトレイが傾いて、座っているシートにもちょっとタレがこぼれて
しまいました。
しまった!と思いあわててウェットティッシュでふいても
染みは取れません。車内に甘辛いたれの匂いが広まっていって、
彼に申し訳なくて半泣き状態で謝ったら、突然彼は運転しながら
大笑いしはじめました。
「夢中で食べているから、いつかこぼすと思っていたんだよ」
「だったら、一言言ってくれれば良かったのに」
「車は中古なんだから別に気にしなくていいよ。
おいしそうに食べているから、邪魔したくなかったんだよ。」

うれしくて、申し訳なくて、心の中がじわーんと暖かくなったのを
覚えています
2006.08.25 


家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から
母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…
2006.08.24 


うちは片親で、母親と二人でした
お母さんは毎日どんなに忙しくても、私にお弁当を作ってくれました

やきとりが中に入ってる事もあったりして。
私はその時お弁当が恥ずかしくて
こんなお弁当いらないょとお母さんに言った事があります。
私は作る側になって
初めてそんな事を言われる気持ちを知りました。
どんなにつらかったか
毎日仕事をしながら
お弁当を作ってくれたお母さん
事情があって会えないけど、お母さんに会いたいです
そして、私を育ててくれて本当にありがとう
親不孝な子供でごめんね
2006.08.23 


俺はいつも同僚のかおちゃんに言っていたんだ

俺はかおちゃんのことが好きだ
それだけで幸せ
かおちゃんが俺のこと好きにならなくても
幸せなんだ

かおちゃんはテレやだから
感情をストレートに出さなかったし
遊びに誘ってもてれて断ってた

だから俺はかおちゃんから
すかれていないと思っていたんだ

そんなかおちゃんは最近新潟の地震にあってなくなった
かおちゃんの部屋からは日記が発見されて
そこに俺のことが書いてあったらしい

私は○○さん(俺)が好き
恥ずかしくて自分の気持ちうを言葉に出せないけど
○○さんがいることで私は幸せ

って。
2006.08.23 


5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』

話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
 一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。

しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。

昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである
2006.08.22 


私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小
さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。

翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。

甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!
2006.08.21 


私は右手に障害があります

兄弟が二人いますが、彼らは生まれたときから
幼児期の写真がたくさんあるのに私の写真はありませんでした。
両親に理由を聞くと、「カメラが壊れていて撮れなかったの。」と言っていました。

物心ついたときから私は自分の障害について認識をはじめ、
他人への劣等感、最終的には自分が生まれてきたことへの恨み、
そして両親への恨みへとつながっていきました。
小学校の頃は両親に「右手は20歳くらいまでには治るかな??」
などと聞いていたりしたのですが、上のようなこともあり、
「何で俺は右手が使えないの?何で俺を生んだの?」
と不躾な、両親からしてみると非常にやりきれない文句をいっていたことを覚えています。

今、私は大学の卒業を控え、両親の私を育ててきた苦悩を
多少なりとも知ることができます。
障害をもって生まれてきた私に衝撃を受けて生後しばらく自暴自棄に
なってしまった母親とそれを立ち直らせるために母親を殴った父親の悲しみ、
写真が少ないのもしばらく私に愛情を注ぐことができなかったから、
そのような背景があるからなんです。

でも、私の記憶にある両親は私にたくさんの愛情を注いでくれました。
幼い頃、寝るときいつも父に右手を握ってもらって寝てたことは忘れません。
「おまえの手が早く治るように。」この父の願いは叶わない事は今ではわかります。
一生付き合っていかなければならない障害ですが、私がこの世に生を受けてきたこと、
両親が頑張って育ててきてくれたこと、絶対恩返しします。

来春から就職。本当に頑張って働いて絶対に親孝行します。
パパ、おかあちゃん、長生きしてください。
乱文失礼しました。
2006.08.21 
 

生まれつきの難聴で、大人になるにつれ低下していく聴力の中で毎日が不安だったあの
頃、あなたと出逢いましたね。

度々、あなたの言ってる事が分からずキョトンとしている私を「かわいい!」って抱きし
めてくれたり、髪をアップにすると補聴器が見えるのをずっと嫌がってたのに、「アップ
にした方がかわいいんじゃない?」って、あなたに出会って私とても前向きになれたよ。

覚えてる?プロポーズで言ってくれた事?
「あっちゃんの耳が聞こえなくなっても、あっちゃんはあっちゃんだから。今までと変わ
らず愛し続けるよ。音の無い世界に突然いったとしても俺が音を届けるから」って。
『ケッコンシヨウ!』って慣れない手話で言ってくれたっけ。すごく嬉しかった。私が知
らない間にそんな勉強してたなんて・・・

あれから、もう3年たったのね。
すっかり私は音の無い世界に来てしまったけど、でも不幸だなんて思った事ないよ!
むしろ幸せかなぁ、なんて。
街を歩いててもこんなにお互い向き合って話す(手話)カップル他にはいないもの・・・
でも、知ってるんだ。
聞こえなくなっても私の事変わらずに「あっちゃん」って呼んでくれてるでしょ?
口がそう動いてるもの。本当に優しい人なんだね。
だから、今でも変わらずに私にはあなたの声だけが聞こえてくるようよ。
あなたが言った「音を届けるから」ってこういう事だったのね。
2006.08.18 
ちょっと泣けた夜だったんで書いてみます。

今日は結婚記念日でカミさんと外食した。

レストランはそこそこに混んでいてガヤガヤうるさかった。 特に隣の家族がうるさくって、カミさんとちょっと顔を見合わせて苦笑いをしたぐらいだった。

父親が子供にいろいろ質問しては笑い、っていうのがえんえん続いてこっちもうんざりしてた。 しかも、その父親がやたらと大きく咳き込むので実際鬱陶しかった。

しばらくすると、ウチのカミさんがその家族の父親を見て、「ちょっとあのお父さん見て」と 言うので、見つめるのも失礼なので向いの鏡越しに彼の後姿をみてみた。

咳き込むたびに ハンカチを口に当てていて、それをポケットにしまうのが見えた。ハンカチは血だらけだった。 咳き込んだあとは赤ワインを口に含んで子供たちにばれないよう大声で笑いごまかしていた。

向いに座っていた彼の奥さんは笑っていたが、今にも泣きそうな顔をしていた。 奥さんはどうやら事情を知っているみたいだった。その父親が何らかの重い病気なのは明らかだった。うちのカミさんはちょっともらい涙していた。

帰りに俺は無神経にも「今日はなんか暗い結婚記念日になっちゃったな。台無しだよな」 とカミさんにいった。

カミさんはちょっと沈黙を置いて、
「かっこよかったじゃんあのお父さん。ああいうお父さんになってね」
って涙声で俺に言った。俺もちょっと泣いた。
2006.08.05 
三年前に親父が死んだんだけど、ほとんど遺産を整理し終えた後に
親父が大事にしていた金庫があったんだよ、うちは三人兄弟なんだけど
おふくろも死んじゃってて誰もその金庫の中身を知らなくてさ
とりあえず兄弟家族みんな呼んで、その金庫をあけることにしたんだけど
これがまた頑丈でなかなか開かないんだよ。仕方ないから鍵屋を呼んで
開けてもらうことにしたんだけど、なかなか開かなくてさ
なんとなく俺たちは子供の頃の話を始めたんだよ、親父は昔からすごい厳格で
子供の前で笑ったことも一度もなくて旅行なんてほんとにいかなかった
子育てもお袋に任せっきりで餓鬼の頃はマジで親父に殺意を覚えたよ

んで、一番下の弟が、そういうわけだからしこたま溜め込んでるんじゃねえか?
みたいなことを言い出して、その後に真中の弟も親父が夜中に金庫の前で
ニヤニヤしながらガサガサやってんのを見た とかいったから
俺もかなり金庫の中身に期待を抱いちゃったんだ
んで、そのときに鍵屋がちょうど「カギ、開きましたよ」といったから
ワクワクしながら金庫の前に行き、長男の俺が金庫のドアを開けたんだ
そしたら、まず中からでてきたのは、古びた100点満点のテストなんだ
それをみた一番下の弟が「これ、俺のだ!」といって俺から取り上げたんだよ
次に出てきたのは、なんかの表彰状、すると次は次男が”俺のだ”といいだして
その後にネクタイが出てきたんだ、見覚えがあるなあと思って
気がついて叫んじゃった「あ、これ俺が初めての給料で親父に買ってやったネクタイだ」
その後に次々と昔の品物が出てきて、最後に黒い小箱が出てきたんだよ
その中には子供の頃に家の前で家族全員で撮った古い写真が一枚出てきたんだ

それを見た俺の嫁さんが泣き出しちゃってさ、その後にみんなもなんだか
泣き出しちゃって、俺も最初は、なんでこんなものが金庫のなかにあるのかが分からなくて
なんだよ、金目のものがねーじゃんとか思ってちょっと鬱になってたんだけど
少したって中に入っていたものの意味が理解できたとき、その写真を持ちながら
肩震わして泣いちゃったんだ。人前で初めて本気で号泣しちまったよ
そこで鍵屋が、きまずそうに「あの、私そろそろ戻ります」とかいったんで
みんなが、はっとして涙をにじませながら「ありがとうございました」
2006.08.05 

今から10年以上前に体験した不思議な話です。
母が10歳の頃、両親(私の祖父母)は離婚していて
母を含む4人の子供達は、父親の元で育ったそうです。
「凄く貧乏だったけど、楽しかった」
「私ら子供達は、みんな父ちゃんが大好きやった」
色んな話をしてくれた最後は、いつもこう言い
私が生まれる10年前に亡くなった祖父を
いつも思い出して、涙を流していました。
爺ちゃんの話をして、泣き出す母を見ていると
「お母さんは会いたがってるのに、なんで爺ちゃん来てくれないんやろ?」
そう思うようになり、それから毎晩、寝る前に
「爺ちゃん、お母さんに会いに来て下さい」と
手を合わせてお願いする事が習慣になりました。

それから1ヶ月ぐらい経ち、いつも通り寝る前にお願いをして
手を合わせた後、目を閉じて眠ると
夢の中に、写真でしか知らない爺ちゃんが現れて
私の側に座ると、買い物袋いっぱいに入ったポン菓子を食べながら
「心配せんでも、ワシ、ちゃんと見てるから」
と、笑顔で言い、私にもポン菓子を分けてくれました。
夢から覚めそうになった時、爺ちゃんは私の頭を撫でて
「今度、お母さんにカラメル焼き作って貰い。
あの子の作るのはコゲかけてるけど、美味しいから」
そう言って、私は目を覚ましました。
起きてスグ、台所に立つ母親に夢の話をすると
そのまま座り込み、子供みたいにワンワン泣き出し
「お父ちゃん、ありがとう・・・ありがとう」
ずーっと繰り返し呟いていました。
その後、ポン菓子は爺ちゃんの好物で
カラメル焼きは、一番最初に爺ちゃんが母に作り方を教えたお菓子で
何度作ってもコゲるのに、爺ちゃんは「美味しい」と食べてくれてたそうです。
2006.08.04 
もしも、このまま私が死んじゃったら、この目をパパにあげる。
そうしたら、ママとキスするときに、もう困らないでしょ。

耳は、アメリカの偉い人にあげて。あの、いつもテレビに出てくる人。
遠くで誰かが泣いている声が、ちゃんと聞こえるように。

この足は、歩けない人にあげて。その誰かがステップを踏む音が、ママとパパに
聞こえるから。

このお口は、歌いたがってる人に。そうしたら、その人は心を込めて
歌うでしょう。死んじゃった赤ちゃんを抱いている人にかもしれない。
それか、床で死を待つ人へ。

この腕は、私は持って行けないの。地球儀の端から端をつなぐために、
きっと必要としている人がいるから
2006.08.04 
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