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わが家には3人の子供がいます。
3才の長女と2才の次女、そして今年1月に生まれた長男です。
朝日のようにさらやかにキラキラ輝く子にと、朝輝(ともき)と名付けた長男は、18トリソミーという染色体異常の病気のため、生後18日で亡くなりました。

妊娠9カ月で病気が分り、病院の先生には
「おなかの中で亡くなってしまうこともある」
と言われていたので、家族みんなが無事の誕生を喜びました。
私の退院後も家族で病院へ行き、きょうも抱っこできたことに、幸せといつか訪れるだろう別れの悲しみを、同時に感じていました。

別れは突然でした。
止まらぬ涙に娘たちが
「ママ泣かないで」
と慰めてくれました。
そんな娘たちのやさしさにも涙が出て、弟と3人の時間を、もっと持たせてあげたかったと思い、また涙の止まらぬ日々でした。

長女は今でも時々
「病院に行こう。
ともちゃん、さみしいって」
と言います。
次女も
「ともちゃん、ご飯全部食べたよ」
と、仏壇の周りにたくさん飾ってある長男の写真に話しかけています。

先日も次女に
「とものご飯にふりかけ、かけないの?」
と言われました。
仏壇のご飯にも、自分の好きなふりかけをかけて、食べさせてあげたかったようです。

わずか18日間だったけど娘たちには弟を思うやさしい心が生まれ、一回りも二回りも大きくなったようです。

「ともちゃん、おはよう」

きょうも、わが家の1日が始まります
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2006.09.28 


色々な事が重なって、友達に「死にたい。

こんな自分嫌い」とうざいメールした。

夜中だったし絶対寝てると思ったら五分後、

「何があったか知らないけど、私の好きな人の事を嫌いとか言わないでくれる?」と返事がきた。

まじめに嬉しくて涙がでた
2006.09.27 


20代半ばをすぎて、母親に結婚しろ~孫見せろ~と言われ続ける日々。
そりゃ結婚に憧れはあるけども、
やりたい事もまだまだあるし、何より相手いないしねorz

そんなやりとりの中で、私は母にひどい事を言ってしまいました。
心のどこかで、ずっと封印してきた漠然とした不安。

「もしこの先、生まれてくる子どもが障害をもってたらどうしよう…」

私には知的障害者の妹がいます。
母方のいとこにも知的障害者がいます。
「遺伝」ということはないのだろうか。
差別するとかそんなんじゃなくて、私に育てられるんだろうかと。

この考えは、今を一生懸命生きてる妹やいとこはもちろん
親戚や母自体をも否定してしまうことになります。
だから今まで誰にも言えなかった。
言った瞬間の母の顔・・・。

「そんなんお母さんが育ててあげるやん!」

母はすぐにニヤっと笑って言い放ちました。
障害もった子は、この人なら育てられると神様が親を選んで授ける、と
聞いた事がありますが、本当かもしれません。
たったひとことでいろんな不安が小さくなって、涙がでました。

この母に、育ててもらった私ならきっと大丈夫です。
本当にひどいこと言ってごめんね。
早くいい人みつけるからね。お母さん
2006.09.24 


看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。

その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。

あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。
2006.09.24 
 

私は19歳、会社員。中部地方の都市に住んでます。実家は九州の田舎で両親は健在です。
私の家はあまり裕福ではありませんでしたが私は何不自由無く育てて貰いました。
幼い頃から父は家族に内緒で借金を繰り返し、家庭はボロボロでした。それでも母は私達のために父と別れず
昼も夜も働き精神的にも病んでいました。
そんな母がいつも言っていた言葉
「あんた達がおるけん頑張れるたい」と言いながら借金を繰り返す父を見捨てず私達を育ててくれた母
私は幼いながらずっと母を守って行こうと心に思っていました

そんな私も高校卒業が近づき就職することになり、田舎では仕事もなく、悩んだ末に中部地方に就職することに決まり、母に伝えました。

それから半年…引っ越しの準備をしている頃、幼い頃から親しい近所のおばさんと道端で
偶然会い、立ち話をしていると…「あなたのお母さん、あなたの就職が決まったって泣き
ながら電話で喜んでたよ」と聞きました。
出発の日、空港までの車中はとても静かでラジオからケツメイシの「さくら」が流れていました。
シンミリとした車内…母はいつもどうりの様子でした。
空港に到着し、
コーヒーを飲み少し話をしていると飛行機の時間になり、
私は手荷物検査を終え出発ロビーへ行き、
母はガラス越しに笑っていました。そして、飛行機の搭乗時間になり、乗り込もうと
荷物を持ち振り返ると、私の前では泣かない母が泣きながら手を降っていました。
私はこぼれそうな涙を押え笑って手を振りました。
通路を通り、飛行機の座席に着いた途端に
押えてたものが溢れ涙が止まらず頭の中は
母との幼い頃の思い出が駆け巡りました。
「お母さんごめん。
いっぱい稼いで楽させてやるからな」と心に誓い、私は飛び立ちました。
それから一年…私は今一児の父になり結婚しました。
母はほんの少しの結婚祝いだと言い、借金もまだあるのに80万送ってきました。「通勤用
の車でも買いなさい」と…苦しいのに無理して用意してくれた母…
2006.09.23 


少し長編になるかもしれませんが
最近気持ちの整理もできたので書いてみます。

今から6年前の話です。
僕がまだ10代で、あまり携帯電話は普及してなくて
ポケベル全盛期の時代のことです。

僕はその頃高校を出て働いていたんですけど
2つ年上の女性と付き合っていました。
お互いの親にも会ったりして
僕は結婚する事を信じて疑いませんでした。

毎朝ポケベルに「オハヨウ」とか
「ガンバッテネ」みたいなメッセージのやりとりをしていたのですが、
ある日僕がメッセージを送るのがめんどくさくて送らない日があって、
彼女からもメッセージは送られてきませんでした。
ちょうどその日は給料日で
僕は今日は彼女にメシでもおごろうと
どこに行こうか考えていました。
仕事が1段落つき、昼休みに入り
食事に行こうとした時に僕宛の電話がなりました。
その電話は彼女の交通事故を告げる電話でした。

僕はその電話を置いた後、
しばらく何のことかわからなかったんですが、
「今意識不明だ」という言葉に体中汗ばんだのを覚えています。
すぐに無理やり会社を早退し
彼女が運ばれた病院へ向かいました。
電車の中で「実はたいした事ないんちゃうかな?」
とか自分に都合のいい方にしか考えたくなかったんですが、
「もしかしたら・・」って考えると周りに人がいるのに
ボロボロと涙が出てきて、すごくさみしい気持ちが溢れてきました。

僕が病院に着く頃には、意識が戻っている事を祈りながら
病院まで走っていきました。
彼女の家族に出会い、容態を聞いてみると
彼女は集中治療室に入っている、という事を聞いて
事態の深刻さを悟りました。
外傷はほとんどなく、脳にショックを受けたらしく
まだ意識は戻っていませんでした。

僕はとりあえず会社に彼女の意識が戻るまで休む事を
電話で伝えて病室の前で、意識が戻るのを待つ事にしました。

その日は病院のソファーで、ほとんど眠れずに夜を明かしました。
目の前のストーブで背中は寒かったのに
顔だけがすごく火照っていました。

結局その日は意識が戻る事なく
次の日の朝1番で着替えなどを家にとりに帰りました。
病院に帰ってみると明日手術ができるかどうかが
わかるだろうという、医者からの話があったそうです。
そして5分だけ面会時間がもらえるとの事で、
僕は会いたいような会いたくないような、
複雑な気持ちでしたが、給食当番の時の様な服を着て
彼女に会いに部屋にはいりました。
部屋の中は訳のわからない機械がいっぱいで
その中のベッドの一つに彼女が寝ていました。
まるで眠っているだけの様な顔で
名前を呼べば今すぐにでも起き上がってきそうでした。
手を握ると腕のあたりに、点滴などの管が何本も刺されていて
容態の悪さを物語っているようでした。
それと唇が妙にカラカラになっているのが気になりました。
5分間をいうのは短いもので、
何か話しかけようとしたのですが、
なんとなく周りの目が恥ずかしくて
言葉らしい言葉をかけれませんでした。

その日は少し気分も落ち着いて
なぜか「絶対大丈夫!」という根拠のない自信でいっぱいでした。
それからは彼女の意識が戻ってからの事ばかり
考えるようになり、頭の手術するんやったら
髪の毛剃らなあかんから、帽子がいるし買いに行こう!
と看病の事を考えて買い物に行く事にしました。
この時僕は目を覚ました彼女を喜ばせる事だけを考えていました。
さっそく帽子を探しに行き、
キャップは似合わんし、ニット帽だとチクチクするから
という事で、綿で出来た帽子を探して買いました。
買い物が済んで、帰ろうとした時に
街中を歩く女の子を見てると、
なんか自分が現実から少しズレた場所にいるような気がして
妙な不安を感じました。
その不安からか、彼女の意識が戻ったら正式にプロポーズしようと
安物ですが指輪まで買って帰りました。

その日も結局容態に変化はなく過ぎていきました。

次の日のお昼前、彼女の父親だけが医者に呼ばれて
病状の説明を受けるとの事だったのですが、
無理を言って僕も同席させてもらいました。
どうしても自分の耳で医者から聞きたかったんです。
多分あれほど緊張した事は今までになかったと思います。
医者の部屋に入って、医者の顔色を見てみると
どっちともとれない無表情な顔をしていました。
医者が口を開いて、簡単な挨拶が終った後喋り出したのですが、
病状はよくなるどころか病院に運ばれた時点で
すでに手遅れでした。
僕はこれを聞いて頭がグラグラして
椅子から落ちないようにする事しか考えれませんでした。
どうやら今治療をしている様に見えるのは、
家族に心の準備をさせる為に
無理やり心臓を動かして、体だけ生かして少しずつ
悪い方向へ持っていくというものでした。

僕は部屋を出て彼女の父親に、家族にはまだ言わないで欲しいと言われ
泣き出しそうなのをこらえて、母親に話かけられても
「用事が出来た」とだけ言い残して、誰もいない場所まで走りました。
街中であれだけ涙を流して大声で泣いたのは初めてでした。

それからちょうど涙が枯れた頃、病院へ戻りできるだけ普通に振舞いました。
その夜、彼女の父親と銭湯へ出かけました。
二人ともほとんど無言で風呂に入り、
話す事といっても関係ないどうしようもない会話ばかりでした。
僕は彼女の父親にはどうしても聞いておきたい事がありました。
僕が彼女と結婚するって言ったら許してくれるかどうかでした。
今考えると絶対に聞くべきではない時に聞いたような気がします。
病院に戻る前に父親を呼び止めて
ストレートには聞けなかったのですが、
買ってきた指輪を彼女の指につけてもいいか?と聞きました。
彼は黙ってうなずくだけでした。
その夜は眠る事ができなくて、家族と顔をあわせると泣いてしまいそうで
外で一人で過ごしました。

次の日また5分だけ面会できるということだったので、
もう1度彼女の顔を見に行きました。
彼女の顔は相変わらず眠っているようで
もう目を覚まさない事がウソのようでした。
僕は彼女の左手にこっそりと指輪とつけました。
もう何の意味もないのはわかっていましたが、
少しでも彼女に近づきたいという気持ちでいっぱいでした。
みんなが部屋を出た後僕は忘れ物をしたそぶりをして
ベッドの側に戻り、彼女のカラカラの唇にキスをしました。

それからしばらく経ち、彼女は一般病棟の個室に移ることになりました。
医者が言うにはもう長くないので
少しでも家族が長く一緒に入れるようにとの配慮だそうです。
僕は1日のほとんどをその部屋ですごすようになりました。
何もする事もなかったのですが、
話かけると声が届いてるような気がして
耳元で歌を歌ったり、話し掛けたりしていました。
そして夜が明けて昼すぎになると、医者と看護婦が入ってきて
みんなを呼んでくださいみたいになって、
みんなが見守る中、心拍数を表示しているピッピッってなる
機械に異変が見られるようになりました。
最後まで僕に片方の手を握らせてくれた
彼女の家族に感謝しています。
それから1時間ほど経った後、
そのまま静かに心臓が停止しました。
僕も含め部屋にいる人みんなの泣き声だけが聞こえてきて、
覚悟はしていたものの、本当にこうなった事が信じられなかったのですが、
医者の何時何分とかっていう声に現実に引き戻されました。

そして部屋にいる全員が驚く事が起こりました。
僕が握っていた彼女の手がものすごい力で
僕の手を握り返してきたのです。
僕は本当に驚いて多分変な声を出していたと思います。
しばらくして彼女の手からスーっと力が抜けていきました。
僕は涙はふっとんで、全員にその事を伝えました。
すると彼女の母親が
「きっと一生懸命看病してくれたからありがとうって言ってるんやで」
って言ってくれました。
冷静に考えると死後硬直だったのでしょうけども、
その彼女の母親の一言で僕は今まで道を間違わずにこれたと思います。

年上だった彼女は今では僕の方が年上です。
2006.09.21 
 

19、20歳の時、一人暮らしの女の家に転がり込んで
一緒に生活を始めた。
好きな時に帰って、好きな時にエッチをして、好き放題していた。
そんなちゃらんぽらんな事ばかりしていたので、その女に子供ができてしまった。その時
の俺は、堕ろすことしか頭になかった。
それが当たり前だと思っていた。
手術日の前日の夜、女の家の机の上に一通の手紙が置いてあった。

「パパへ
 初めまして、私はこころといいます。
 今はまだ、ママのおなかの中にいます。
 こころは、パパのお顔を見てみたかったです。
 こころのお顔も見てほしかったです。
 パパはこころのことが大嫌いで会いたくないのかも知れませんが、
 こころはパパのことが大好きです。
 こころはお空の上からパパのことを見ているので、
 パパもこころのことを忘れないで下さい。
 こころはパパのことが大好きでした。
 こころ より」

俺はぼろぼろと泣きながら、何回も読み返した。
どうすることもできない自分が情けなかった。
けなげに寝ている彼女の姿を見て、また泣いてしまった。

今は別の女と結婚して、2児の父親になった。
今でもこころのことを思うと、切なくなってしかたがない。
2006.09.18 


晴れの日、空を見上げて君を思う。
青色に雲の白色、木の緑色がくっきりと浮かび上がる。
そんな日は決まっていつも君から連絡が来ていた。
「晴れてるよ!今ひま?」
考えてみると、私はいつも君に振り回されていたね。
約束はすっぽかされるし、行きたいって言った場所にはなかなか行ってもらえなかった。
結局2年間一緒にいて、一緒に行きたかったこと、したかったこと、まだまだ沢山あった
のに出来ないで終わってしまった。
それでも、そうやって君から突然の連絡があったりすると、私は「自分が暇なときばっか
り!」と思いながらも嬉しくて他の事そっちのけで君に会いに行った。
君は遠かった。どんなに近くにいても私には入り込めない部分が君にはあって、私はそれ
が辛かった。
楽しいだけでいつまでも一緒に居れたら、どんなに楽なんだろう。
ずっとそう思ってきた。でもやっぱりそうじゃないこと、私は分かってしまった。
本当によく一緒に笑ったね。すっごく楽しかった。
どんなに遠くても、笑ってる間はすごく近くに感じた。
きっと、これからだって一緒に居たら、いっぱい笑ってる君と自分が居るんだろうね。
でも、もうさよならするね。
力になってあげられなくてごめんね。
頼りにならない彼女でごめんね。
大好きだったよ。
君と出会えて、あんなに一緒に笑えて、本当に、本当に幸せでした。
さよなら。ありがとう。
2006.09.18 
悔しいことがあって眠れない。
他人にとってはちょっとのことなのに
自分にとっては生きるか死ぬかの
と言えばオーバーだけどそのくらい
つらいことだってある。

なんかそういう性格に生まれついた
のは損だなあか。

なんとか仕事がこなせてよかった。

最近思うこと。
私が一番好きだった人って
死んだ父親かも知れない。

ハンサムで背が高くておしゃれで
女によくもてた
私の父親。

でもそのために
夫婦げんかが絶えなかった。
母はとても苦労して地獄だったらしい。
私も地獄だった。

孤独だった子供時代。
子供のとき
クリスマスでさえもお酒を飲みに
行って帰って来なかった父親。

もうすぐクリスマス。
悲しい思い出ばかり。

いつか死ぬまでにいい思い出が作れたらいいなあ
2006.09.14 
なんだか突然薬をいっぱい飲みたくなります。
一度やらかしてからは、危ない薬は出ていません。
飲んでどうなるものでもないのに
世の中が変わるわけでもないのに
飲みたい衝動にかられます。
ただの弱虫です


薬をたくさん飲みたくなるきもち、すごーくわかります。
私も度々思います。
死ねるわけでもないし、狂言自殺と言うのとも違う、
誰かにわかってほしいのか?
誰かに気付いてほしいのか?
それもよくわからない。
ただ、ここから逃げたいだけなのかもしれない。
逃げられない事も、薬を飲んだくらいで何も変わらない事も
わかっているけれど…
苦しいよ。
まるで私の周りの空気には酸素が含まれていないかのように
苦しいよ。
2006.09.12 
私の両親は自営業。
いつも店で仕事をしていてあんまり遊んでもらえなかった。
子供の頃は解ってはいたけどちょっとさみしかった。
そんな私が子供を産んだ。
母は1日しかない休みの日に
毎週私を手伝いに来てくれる。
「大変だろうからいいよ」と言うと、
「いいの。私はあんた(私の事)に責任がある。親だから。
孫はどうでもいい。
子供に対して責任があるの。
あんたも自分の子供に責任があるんだよ」と言われた。
母の愛ってこういうものかと感じ、
自分も親なんだ・・・とちょっと泣いた
2006.09.12 
大学のサークルで吹奏楽をやっていた頃の話です。
ある日楽器を持ってバス停に立ってました。
するとそこに居合わせたおばあさんが、「楽器弾くのかい?」と声を掛けてきたので、「ええ、近々演奏会があるので良かったら聞きに来て下さい」と答え、軽い会話程度でバスが来たら別れました。
そういえば正確な日付や時間も教えなかったな‥などとバスの中で思い返しましたが、次第にその出来事は雑踏の中に消えて行きました。

演奏会当日‥最後の曲の後の拍手の中、ステージ前に立つ小さな人影を見ました。
あの日のおばあさんでした。
自分はステージ前に出て、おばあさんの差し出す紙袋を受け取りました。拍手が大きくなりました。
紙袋の中には一生懸命選んでくれたであろうお菓子が沢山入っていました。
自分で演奏会のスケジュールを調べて来てくれたのだろうか‥感動が止まりませんでした。
その時の流れでステージで会った以降会うことはありませんでしたが、もう一度ありがとうと言いたかった
2006.09.09 

僕の周りの友達は凄くヤンチャな子ばかりで。その中に一人「狭心症」と言う心臓の病気を持った子が居ます。その子は凄く頭が良くて友達思いの子だったはずなんですがその子の「おじいちゃん」が亡くなってしまってから変わってしまったんです。その子はとても「おじいちゃんっ子」で、おじいちゃんが唯一の理解者だったんです。母親と父親は共働きで、それでもその子は寂しさを我慢して暮らしてました。唯一の支えがおじいちゃんと遊ぶ事だったんです。それが中学に入ってすぐくらいにおじいちゃんが亡くなって…友達は非行に走り少年院に入りました。出てきてからも喧嘩ばかりして、「親を全く信用していない」親からして「俺は必要ない」と思い込むようになりました。そんな彼が高校2年生になった時…一通の手紙が彼宛てに届きました。その手紙は亡くなったはずのおじいちゃんからでした。彼は夢でも見てるのかってくらいに驚いて、手紙を読みました。書いてあった内容は「元気かい?ワシはもう元気じゃないかもしれない。迷惑かけてるならすまん…可愛いお前が20になって一緒に酒が飲める事を楽しみにしてるよ。友達は大切に!信じあって支えあ
えば1+1=2にも4にも10にもなるから。だから大切な時間を楽しい今を一生懸命生きなさい」って書いてありました。その手紙がなぜ亡くなってから届いたのかと言うと…おじいちゃんの当時住んでいた地方で「10年後の貴方へ送る手紙」と言うイベントがしていたらしく、おじいちゃんは自分の孫へその手紙を書いたのです。それが亡くなって5年の月日を経て彼に届いたのです。その手紙を読んだ彼は今は改心して精一杯人のために、自分のために今を一生懸命生きています。そして僕らはまた一歩また一歩大きくなって行ってるんだと実感しました
2006.09.09 
お医者さんから家族そろって来るようにと言われた。
母の顔は青ざめていた。
後日、母と姉と私は父が入院している釧路の病院へと車で向かった。

「いったい何だろね?家族そろって来いなんて」

ふさぎ込む母の前で「きっとお父さんB型肝炎だから、家族も検査しろっていうんだよ」なんて言ったが、内心は不安でいっぱいだった。

先生は淡々と病気の説明を始めた。
末期がんで、あと3ヶ月もつかどうかという話しだった。
そんな時、ドラマなどでは「先生助けて!」と懇願し泣き叫ぶが、あれはうそだと思った。

私たちは妙に冷静で、黙って話を聞き、黙って席を立った。

泣き叫ぶことができたら、まだ楽だったろう。
さすがにその後、父の病室に入るのはつらかった。
冗談っぽく

「おい、がんだって言われたか?」

と笑った父の顔が忘れられない。

そして、帰りの車の中で、姉と私はなぜか「森のくまさん」を歌い出した。
大きな声で、なぜか笑いながら、大合唱が延々と続き、しまいには替え歌になったりしながら、とうとうそのまま家路に就いた。

その夜、布団をすっぽり頭からかぶり、私は思いっきり泣いた。
きっと、母も姉も同じだったろう。

あれから15年。
今、私は託児所でパートの仕事をしている。
たまに子どもたちが歌う「森のくまさん」を聞くと、あの時の切ない情景がよみがえってくる。

「あと一週間の命」だと。
入院している義父の所へいっても、もう、何もかも手遅れだったのは、いつの頃だったろうか…

何年たっても、色褪せないあの病室。
あのカーテン。
…そして、何も言わない、言えない、動けない、義父。

最期に何をしたかったんだろう。。。


今は海の見える丘で眠っているお義父さんへ
2006.09.06 
ある若い夫婦がお子様ランチを2つ注文しました
食堂の主任さんが、
子供もいないのになぜだろうと不思議に思い訳を尋ねました
その夫婦の娘さんは、TDLに来てお子様ランチを食べるのを
とても楽しみにしていたのに、その夢もかなわず亡くなってしまいました。
その思いを大事にしたくてお子様ランチを頼んだそうです。
そこで主任さんはお子様ランチを3人分と子供用の補助椅子を持ってきて、
「これは当店の気持ちです。どうぞ娘さんとご一緒に・・・。」
と言ったそうです

夫婦は大いに感激し、娘さんとの食事を楽しんだそうです
2006.09.05 
殆内記憶というのがあるそうで、こんなはなし・・


不妊に悩む女性がいて、やっと子宝に恵まれた。

子どもが二歳になり、いろんな言葉も覚えた頃に「お母さんのお腹の中のこと、覚えてる?」と聞いてみた。
「おかあさんのとこだけだれもならんでなかったから、ぼくがならんであげたんだよ。」
2006.09.01 

小学生のとき、少し知恵遅れのA君がいた。
足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅い。でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。

担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を
周りの子供は笑う。N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。

クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することに
なったので、全校集会で先生のお別れ会をやることになった。生徒代表で
お別れの言葉を言う人が必要になった。先生に一番世話をやかせたのだから、
A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。お別れ会で一人立たされて、どもる姿を
期待したのだ。
私は、A君の言葉を忘れない。
「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」
A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。水彩絵の具の色の使い方を教えて
くれたこと。放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。N先生がぶるぶる震えながら、
嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。

昨日、デパートのポストカードなどに美しい水彩画と、A君のサインを発見いたしました。
N先生は今、僻地で小学校で校長先生をしております。

先生は教員が少なく、子供達が家から2時間ほどかけて登校しなければならないような
過疎地へ自ら望んで赴任されました。

N先生のお家には、毎年夏にA君から絵が届くそうです。A君はその後公立中高を経て、
美大に進学しました。お別れ会でのN先生の挨拶が思い浮かびます。
「A君の絵は、ユトリロの絵に似ているんですよ。みんなはもしかしたら、
見たこと無いかもしれない。ユトリロっていう、フランスの人でね、街や
風景をたくさん描いた人なんだけど。空が、綺麗なんだよ。
A君は、その才能の代わりに、他の持ち物がみんなと比べて少ない。
だけど、決して取り戻せない物ではないのです。そして、A君は
それを一生懸命自分のものにしようしています。これは、簡単なことじゃありません!」

A君は、空を描いた絵を送るそうです。その空はN先生が作り方を教えた、
美しいエメラルドグリーンだそうです
2006.09.01 
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