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おばあちゃんは私が
小学5年生のときに死んでしまった。

病気がわかり入院が決まった前日おばあちゃんと
家族で買い物に行った。
入院の用意をそろえるため。
おばあちゃんは私の手を握って
「Oちゃん、ばあちゃんエラいよ・・・」
と言ったのを覚えている。
入院した頃にはもう手遅れだったらしい。
母と毎日病院に通った。
とても長い間通った。
私はおばあちゃんが大好きだった。
いまでも「Oちゃん」と呼びかけてくるあの
優しい声が忘れられない。

始めのうちは私もまさか死んでしまうなんて
思っていなかった。
それはおばあちゃんもそうだったらしく
かなり病状が悪くなってから
「あかんねぇ・・・・」とつぶやいていた。
おばあちゃんに会える病院は好きだった。
売店でお菓子を買うのも病室で絵を描くもの
楽しかった。
おばあちゃんが車椅子で散歩した時
売店で見つけたキティーちゃんのぬいぐるみ。
おそろいで買ってくれた。

日にちとともに病状は悪化した。
私は助けてあげれなかった。
おばあちゃんが久しぶりに食べたいといった
イチゴ。母は雨の中買いに行った。
美味しそうに食べたがすぐに吐いてしまった。
おばあちゃんが危ないとはっきり
言われるようになった。
新学期だった。実感がなかった私は
「O日に代表委員の選挙があるんだ。頑張るね。」
とノンキに話しかけた。
返事はなかった。
その選挙の少し前おばあちゃんは死んだ。
家族で病院に泊まっていた。
私は眠っていた。看護婦さんが飛びこんできて
起きた。私は泣き喚いた。
母は最期まで暖かい手をしていたといっていた。

普通ならお通夜とお葬式で学校にいけるはずのなかった選挙の日。私は学校にいて選挙に
でた。
演説ではおばあちゃんのことを言った、泣いた。
私は委員長になった。
おばあちゃんはあの時の私の言葉を聞いてくれていたのだ。葬式会場の都合でちょうど選
挙の日
学校に行けた。おばあちゃん・・・・

おそろいのキティーちゃんは今も部屋にいる。
おばあちゃんも天国へ持って行った。

今一番会いたい人は大好きなおばあちゃんです。
ただ一言「ありがとう」といいたい。
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2006.10.31 


中学校の時、もともと不良っぽい問題児だった洋平って奴がいた。
そんなに怖がられるような奴ではなかったし暴力騒ぎはおこさなかったが、
洋平の大学生の兄がバイク事故で亡くなった。
洋平は荒れて、学校に来ない日が続き、ようやく出席しても特に先生に対する
暴言、暴力を振るった。更には同級生にまでささいな事で一方的に喧嘩をふっかけた。
担任の赤田先生はそれでも洋平にストレートにぶつかっていた。
洋平は赤田先生に平気で暴力をふるうまで荒れて、手が付けられない、そんな状態でした。

しだいに生徒の親やPTAで問題視され学校側も対策を考え出したみたいでした。
ある日、洋平はいつも通り赤田先生に注意を受け、暴言で返し、再度注意を受けると
赤田先生に蹴りを入れました。
「いちいちうるせぇんだよ!死ねよ!」
洋平は赤田先生にそう言いました。

すると、一度も手を上げなかった赤田先生が洋平を思い切り殴りました。
-大変な事になる!クラス全員がそう思ったと思います。
でも、洋平は目を真っ赤にさせて赤田先生を見ると
「すいません」
と言って教室を出て行きました。

赤田先生は当時はわかりませんでしたが辞表をその日に提出したみたいです。
そして翌日、赤田先生は現れず、教頭が来ました。
洋平が呼ばれました。そして数十分後、戻ってくるなりこう言いました。
「俺は殴られてない。聞かれたらそう言ってくれ」
その後、教頭と数人の教師が来て「赤田先生は手を上げた?」と聞き、僕らが
何も答えないとクラス委員を指名して答えされました。
「いいえ。」
と首をふりました。
その後、一人一人指名して行きましたが、全員が
「いいえ。」と答えました。

赤田先生の担任復帰はかないませんでした。赤田先生は謹慎期間を終えると、別の
学校へ赴任して行きました。
後日談として、洋平は今、高校の数学の先生をしています。
2006.10.27 


初めてのあかちゃんに無我夢中だった。
ろくに眠らず、夜鳴きもひどかった娘。
へとへとに疲れはてて、抱っこでゆすりながら
「あんたはママを苦しめたいの?ほんとにひどい子だ」と
悪態をついた日々。
赤ん坊の気持ちなんて、全然わからない。
母親の自信なんて、みじんもない。ただ、もがくだけの日々。

あれから数年たって、娘は五歳になった。
「あのね、ママ」(もじもじ)
「なぁに」

「あたしね、ママのこと、生まれたときからすきだったの」

あの頃の私が一番聞きたかった言葉。
やっと聞けた。

こっそり台所で泣いた。
2006.10.24 


子供の入院関係の話なんですが

うちの子は1歳半の時に、ある手術をしました
そのオペ出しの時、
普通ならストレッチャーに乗せて行くんだけど
まだ小さいので私が抱いて手術室の前まで行きました
そして手術室の看護婦さんに渡そうとすると
何かを察しているのか、しがみついてきました
それでも看護婦さんに抱かれて手術室に入っていく息子
閉まる自動ドアから「抱っこして」のポーズの
息子をただ見つめていました
立っていられなかった
2006.10.22 


安らかな死を、と誰もが願う。
臨床医のぼくもそうしてあげたい、と思う。
でも時に体は火山のように爆発することがある。
がんの末期の体が噴火する。
吐血だったり喀血だったり、腸の穿孔だったり、突然の脳出血だったり。

竹久夢二の絵の中から飛び出てきたような49才の柴田妙子さんは、5年前に小腸の腫瘍で手術を受け、その時すでに肺転移があったが、おだやかな進行で日々が過ぎていた。
2年前、術後の癒着のために2回目の手術を受け、それからずっと入院生活をなった。

編み物をしたり、メダカを飼ったり、版画を彫ったり、友人に手作りの封筒で手紙を書いたりのおだやかそうな日々。
でも腹痛は毎日のようにやってきた。
痛み止めの注射を1日に3回、それが5回になることもあった。
相当な量となった。
ほんの少しのメロンやアイスクリーム、ミソ汁やゼリーだけが腸を通っていった。

噴火が生じたのは去年のクリスマスイブの日だった。
腸閉塞だった。
注射は10回打ったが効かず、夜の緊急手術となったが、腫瘍は腹膜に広がり、手がつけられなかった。
2日後、妙子さんは他界された。

凍てついた雪道を歩いて、市民団地、Bの16を探した。
住人がいるのかいないのか、灯りが少ない。

「柴田さんの家、どこでしょう?」
「さあ」

お通夜だから隣近所の人、知っていると思うのに知らない。
ようやく探し当て「ピンポーン」と鳴らしてみた。
「やあ、どうぞ」と御主人。
トラック運転手である。
他には誰もいない。
質素で静かなお通夜だ。
妙子さんは今にも起きだしそうな、冷静でスッとした美人顔で無言である。
夫に苦労させられた妙子さん。
病気になってからは夫が改心したかのように妙子さんを看病し「私、病気になってよかったかもしれない」とまで言っていた。
いつも、季節の野花や木や花がベッドの周辺にあった。
夫の妙子さんへの愛(ざんげ)の証だった。

狭い団地の一室で、熱い番茶をすすりながら、何年にもなる病院生活を思い出し語り合った。

忘れられないのは、犬のL(エル)のことだった。
柴田さん夫婦はお子さんがなく、一匹のコリーを飼っていた。
入院した時、犬の世話ができなくなって漁村の知人に預けた。
亡くなる1か月前、妙子さんはLに会いたい、と言った。
半年会っていないという。
晩秋の日曜日、ぼくは柴田さんご夫婦を乗せて、病院から15キロ離れた漁村へ車を走らせた。

Lは妙子さんを見ると一気に飛びついた。
妙子さんの表情はパーッと明るくなった。
妙子さんもLを抱きしめた。

「覚えていた?会いたかったよ、いい子してた?」
と妙子さんは言い、Lの背を何度もなでた。
Lはハーハーしながら安心して、うれしそうだった。
「行こうか?」と妙子さんはLを連れて浜辺の方へ歩いた。
びっくりした。
病院ではトイレへ行くのも痛む腹をかかえてしんどそうな妙子さん、Lにひっぱられて笑顔でスタスタと砂地を歩いた。
ペットの力、動物と人間の愛の力を目のあたりにし、教えられた。

「Lがね、ちょうど女房が手術を受けているころ、えらく吠えたそうです。
預かってくれた人が言ってました」

「女房、結局は安らかな死を迎えたと思いますよ」

「俺、5年間、なんか浮遊していて、それが女房が死んで、急に地上に落とされて、ハッと目が醒めた気がしてるんです」

ご主人に見送られて外に出ると、冬の星座が団地の上の空に輝いていた。

2006.10.19 


保育園の時です。
ちょっと貧乏だった私の家は、共働きでした。
保育園は3時に終わるのですが、親が仕事などで迎えに来れない子は
保育園が延長保育で見てくれていました。
私を含め、10人くらいいました。
みんなで運動場でゲームをやったり、遊具に乗ったりして、迎えが来るまで過ごすのですが、
夕方になるにつれ、だんだん迎えがきて
最後は私と2人の先生だけになりました。
私は子供心に
「私だけまだ居て、先生に悪いなぁー」とか
「もう、母さんこないのかなぁ」とか、考えてました。
なんだか寂しくなってきたころ、ふと外を見ると「ヨシーっ!ヨ~~~~~シっ!」
夕焼けで真っ赤に染まった道路の向こうから、
母が自転車に乗ってやってきました。私の名を呼んでいます。

あの時の母の呼び声と、夕焼けの赤さと、先生の優しい顔が
脳裏に焼き付いてます。
その光景を思い出すと、なんだか涙ぐんでしまいます。
ただの日常的な光景なのにね・・・
2006.10.15 

昔、付き合っていた彼女が精神的不安定で
自傷癖や不眠症をわずらっていて、
その彼女のストレスがいつも俺に向けられた。
いつしか俺もそんな彼女と一緒にいるのが
嫌になり、別れ話をきりだすことになった。
彼女のことは好きだったけど
俺も若かったし、もっといろんな可能性を夢みていた。

俺が別れ話を切り出すと彼女は意外とあっけらかんとしていて
「私も別れようって思ってた。」と言った。
俺はその時ちょっと安心して彼女の家を去った。
帰りの電車の中でいままでの彼女といた3年間の出来事を思い出していると涙が出た。
彼女も同じ気持ちだろう、
俺に気を使ってあんなに気丈に振舞っていたに違いないと思うと
ほんとに彼女に申し訳ないことをしたと思った。

今は俺も30になって結婚もしている。
俺のかみさんは今はもう元気になって精神状態も安定して、
お互い幸せに暮らしている。

あの時電車を途中で降りて死のうとしていた
彼女のもとに戻らなかったらどうなっていただろうと
ふと考えることがある
2006.10.13 
 

あたしすごく悩んでて、今の自分がどうしていいかわからない・・・。
今は今ですごく幸せで、
すごく平和で、
そんな毎日を過ごしているのに・・・
そんな時、ある人からこんな言葉をもらった・・

『俺は今の生活をする為に、生まれてきた気がするよ』

その人は家庭も持っている人で
自分の方向性に悩んでいた私に言ってくれた。

あたしも、早くそう思える場所が
見つかるといいなぁ。。。
前向きに生きていこう!
2006.10.11 


あたしゎ⑭歳のトキ強姦されたよね…?
そのトキお父さんゎ警察署に迎えに来てくれたトキ何もゆわなかったよね…?
ただ黙ってるだけ…警察から電話かかってきたトキ補導されたと思って迎えに来てくれたん
だよね…?
でも違うくて…本当ゎビックリしてたよね…?
でも表情一つ変えずに…
あしたゎ呆れてたんだと思ってたよ?
それから時間が立ち…
犯人が捕まったガセネタをあたしゎ聞いて喜んでお父さんに話したよね…?
そのトキお父さんゎ『捕まったと思って気緩んだらアカンのやで』ッてゆってくれたよね…?
でも本当ゎ犯人捕まってなかったんだよ…οο
今でもまだ捕まってないねοο
お父さんがゆってるコトあってたよ!!ありがとうοο
あしたが強姦されて本当ゎあたしよりお父さんの方が傷ついてたんだよね…?
考えてたんだよね…?
いっぱい心配してくれてたんだよね…?
本当にありがとうοο

あたしが彼氏の赤ちゃんできたトキ本当ゎ産んでも良かったんだよね…?
孫の顔見たかったんだよね…?
でも今のあたし達ぢゃ経済力がなぃから赤ちゃんのコトあたし達のコト考えて反対したんだよ
ね…?
そう思っていいよね…?
だからいっぱい悩んでくれたんだよね…?
赤ちゃんゎ結局諦めなければならなくなって諦めたよね…?
凄く辛かったよοο
でもその分お父さんにいっぱい心配かけたんだよね…?
ごめんね…
今までお父さんにいっぱい心配かけてゴメンね…
いっぱい迷惑かけてゴメンね…
本当ゎ心配何かかけたくないんだよοο
悩ましたくないんだよοο
こんなコト言ったコトなぃけど…お父さんのコト大好きだよ☆☆
あたしのたった一人のお父さん…
世界に一人だけのお父さん☆☆
本当に大好きだよ☆☆☆
2006.10.10 
 

私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも
華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。

友達に見られるのが恥ずかしくて、
毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。

ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の
大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。

私は生返事でそのまま高校へ行き、
こっそり中身を確認した。
すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪い
し、とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、
いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」
とついきつく言ってしまった。

母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らな
くなった。

それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。
母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。

「今日は〇〇の好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃになったけど…
喜んでくれると良いな」

何で食べてあげなかったんだろう…

今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。
2006.10.08 


 平成5年8月2日、夫は国立病院のベットの中で「こんなにうれしいすてきな誕生日は生まれて初めて」 との笑顔を残し、その5日後に天国へと旅立ちました。
 肺ガンとの2ヶ月あまりの闘病の中での、看護婦さん方のあたたかい心を、私は生涯忘れる事はないと思っております。
 6月1日、病院に検査の結果を聞きに出向いたその日に即入院。
「現在の状況では6月いっぱい」 との医師の言葉に、必死で闘いました。
医師、看護婦さん方の大きな力で7月も過ぎ、8月を迎えました。

 最後の誕生日になるかもしれないと、私は夫のためにケーキを用意しました。 大きいローソク6本、小さいローソク4本に灯がともりました。
 その時、看護婦さん7人がそれぞれ、ばらの花1本ずつを手に「お父さん、お誕生日おめでとう」と、一緒に祝ってくれました。

 病室の雰囲気は、ぱっと明るくなり、数回かかってローソクの火を消す夫の目には、いっぱいの涙が光っていました。

 あの日の親切、本当にありがとう。
2006.10.04 


高校生の時に付き合ってた人がデートの別れ際に私の目の前に交通事故にあった。
私が救急車をよんで彼は「全然大丈夫だから」と言って救急車に乗り込んだ。
ほんとにその時は全く平気っぽくみえて私も安心していた。でもその夜に彼が死んだ。
なんにも感じなかったし、彼が死んだことを受け入れられなかった。
お葬式の日も私は全く悲しいとかそういう感情もなくて、彼が死んだことになにも感じなかった。
そんな自分を責めたりもしたけど、どうしても悲しくなかったし、泣くこともできなかった。
周りはすごく私に気を使ってくれたんだけど、そう言う風に気を使われるのも私にとっては
うっとおしいだけだった。
半年ぐらい経って友達と死んでしまった彼のことを話していると
なぜだか急に涙があふれてきて私は泣き崩れた。自分でもびっくりするぐらい涙が出て、
悲しいって感情は無いのにどうして涙だけが出るのかわからなかったけど、
彼氏が死んでから半年経ったその時私は初めて泣いた。
2006.10.04 
今から15年以上前に体験した不思議な話です。
母が10歳の頃、両親(私の祖父母)は離婚していて
母を含む4人の子供達は、父親の元で育ったそうです。
「凄く貧乏だったけど、楽しかった」
「私ら子供達は、みんな父ちゃんが大好きやった」
色んな話をしてくれた最後は、いつもこう言い
私が生まれる10年前に亡くなった祖父を
いつも思い出して、涙を流していました。
爺ちゃんの話をして、泣き出す母を見ていると
「お母さんは会いたがってるのに、なんで爺ちゃん来てくれないんやろ?」
そう思うようになり、それから毎晩、寝る前に
「爺ちゃん、お母さんに会いに来て下さい」と
手を合わせてお願いする事が習慣になりました。

それから1ヶ月ぐらい経ち、いつも通り寝る前にお願いをして
手を合わせた後、目を閉じて眠ると
夢の中に、写真でしか知らない爺ちゃんが現れて
私の側に座ると、買い物袋いっぱいに入ったポン菓子を食べながら
「心配せんでも、ワシ、ちゃんと見てるから」
と、笑顔で言い、私にもポン菓子を分けてくれました。
夢から覚めそうになった時、爺ちゃんは私の頭を撫でて
「今度、お母さんにカラメル焼き作って貰い。
あの子の作るのはコゲかけてるけど、美味しいから」
そう言って、私は目を覚ましました。
起きてスグ、台所に立つ母親に夢の話をすると
そのまま座り込み、子供みたいにワンワン泣き出し
「お父ちゃん、ありがとう・・・ありがとう」
ずーっと繰り返し呟いていました。
その後、ポン菓子は爺ちゃんの好物で
カラメル焼きは、一番最初に爺ちゃんが母に作り方を教えたお菓子で
何度作ってもコゲるのに、爺ちゃんは「美味しい」と食べてくれてたそうです
2006.10.03 
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